英語教育、破綻させたのは誰だ?

著者:オレ流TSJ

著者名がイマイチで敬遠していたのですが、読んでみると、とても共感出来る本でした。
著者の人は実際の公立高校の英語教師で、いくつかの高校を渡り歩いていた(多分一部の人とは言え力を認められている人なのでしょう)ようです。
ある意味、現在の文科省の教育指導要領に従ってきちんとやっている一人と言うだけ、ともいえます。

その中で“古来のやり方”に固執している人、出来ない人、それを正当化しようとする人達を“批判”している本ということになるでしょうか。

私がいつか書きたかったことが、きちんと現場のリアルな声として書かれているのはとても嬉しいとすら感じます。
大抵は文科省批判しがちですが、この点は私は少々間違った認識を持っており反省せねばならないと感じました。
言葉の一部が切り取られて報道やらで取り上げられるので、その前後から含めて意味を取り違えてしまうところがあります。

「英語で授業せよ」というのも、「なるべく英語に触れさせるため、少なくとも授業中は英語をなるべく使うようにしましょう」「もちろんその学生レベルに合わせて表現は選びましょう」ということも言っているそうです。

この教師は、授業はもとより普段の学校生活の注意や説教も英語でやるようにしているようです。
素晴らしいと思うのは教師が英語で言って、生徒が返すのは日本語であり、それで良しとするということです。
つまりこれが“英語によるコミュニケーション”なのです。
ベストは生徒も英語で返すことですが、そこは強制しません。

現実にもお互いに相手国の言語を勉強している時はこういうことが起きえます。
自分では相手の言語を喋れないが聞くことは出来る、という場合はお互いに自分の言語を喋っているだけでもコミュニケーションが成立しうるのです。

重要なのは英語というものが“授業や教科に存在する特別なナニカ”ではなくて、“一般生活の中に存在しているもの”ということを実感することなのだと思います。
それは台本か原稿にある“台詞”では無く、普通の言葉としての英語を喋ることが重要になります。
本来の英語教師であればその程度は欲しいと思うのですが、実際にはかなりの英語教師が「台本通りに英語という教科の授業を行う程度の(英語)力しかない」という現実を指摘しています。

これは自分が中学・高校時代の時を思い出せば容易に納得が出来ます。
私の高校時代にオーストラリアから留学生がいたのですが、彼と英語できっちり会話出来ていたのは10人弱はいた英語教師の中で若手の一人の教師だけだった、ということをある意味衝撃と共に記憶しています。
授業の様子を思いだしても「ああ、そうだよな」と腑に落ちます。

また、一方で、文法偏重の授業による弊害と共に、それが「ダメ出し」教育であることを指摘し、断罪しています。
この意見にも全く同意します。
「文法を重視して授業を行うか云々」というのが問題の本質では無く、些細な問題「これでも別に意味が通るじゃん」とレベルでも「ダメ出し」によって否定し続けることが問題なのです。
挙げ句の果てに、教師が提示した“翻訳文”だけが正解であると断定する。
このような発想自体が、ゆがんだ教育であると否定されるべきことです。

私自身もこれを(はっきりではないですが)学生時代に感じ、ひどく反発し、ほぼ英語の授業を“スルー”していたことを思い出します。
もちろんそれだけでは単なるサボタージュですから、高校二年の内には英検2級を取得(当時英検2級は高卒レベルとされていました)、親に説明し、英語のテスト等が悪くても問題なしと考えてもらえました。(そうはいっても、学校の授業無視でもテストの結果は平均点程度でしたから思っていたより酷いものではなかったのかもしれません)

著者は英語だけでは無く国語においても「ある作品で主人公が思ったあること」を一方的に“正解”として押しつける姿勢も指摘しています。
私は国語は好きな科目だったのですが、高校の“現代国語”なる教科はこのような傾向が強く、しばしば教師と衝突したことも記憶していますが、結局、単に国語嫌いになってしまいました。
一方で、ロジカルな“古文”や“漢文”の方が好きでした。(もちろん古文でも深みに入ると意見が分かれるのかも知れません)

この点でもうひとつ問題なのは、このようなやり方が、教師の“サボタージュ”からくると疑われることです。
この本でもそのことを指摘していますが、このようなやり方が「最も楽」なのは論理的に納得出来ると思います。
常にアドリブで喋り続けるのは当然ながら大変なことです。

「予め用意した台本通りの英語で授業をする」のではなく、「自分が普通に発した英語で授業をする」ことを文科省は求めているということのようです。
本の中では著者の経験で「頑張って作ったであろう“英語による台本”を読み上げて“英語で授業”している」様子が描写されています。
“頑張って英作文”したのでしょうが、別に文科省はそういうのを求めているのではないはずなのです。

本当かどうかはわかりませんが、今回の“英語で授業”を受けて、英語の教師が英会話教室に通っている(ネットのもあります)、などという話も見たことがあります。
笑えない話とも言えますが、考えて見ればこの方々はまだ“真剣に今回の変革を捉えている”という意味で良い方なのかも知れません。

さて、話が批判ばかりになりましたが、この著者が英語の勉強として主導とすべきは「多読」であるとしています。
英語の書籍やらをたくさん読むことで英語力がつく、ということです。もちろん耳から“読む”のも含みます。
文法は否定しても良いともいいます。

国語(日本語)でも、文章力や語彙力つけるには良書を多読するということはよく薦められます。
私もその通りだと思います。

私自身、中学高校とバカみたいに本を読んでいました。
その頃の読書量が、今でも文章を書く上での下支えとなっているのだと思います。

もちろん英語の本も読みました、といいたいところですが、実は当時は値段が高くなかなか手に入りません。
私が学生の時は、為替レートもきつく、それを除いても現地の価格の3倍ぐらいはしましたから絶対額としても、心理的にもとてもキツいのです。

今は天国のような環境です。
Kindleさえあれば英語の本がごく普通の価格で買えます。
別に“輸入”しなくていいのです。
電子ブックは各社から出ていますが、Kindleにした理由は洋書の充実ぶりです。親会社が米国企業なのだから当り前ですが大きな利点です。
仮に今、学生なら、お年玉でKindle端末を買って小遣いで洋書を購入していたでしょう。

英字新聞もネットで読めますし、英語コンテンツが溢れています。
1次情報(いわゆるニュースソース)を得ようとすればやっぱり英語です。
ネット上の日本語情報はなんだかんだで多いですが、それでも2割程度という説があります。
やっぱり半分以上は英語であって、あとは“その他”という感じのようです。
だからネットで言えば「英語を勉強することがいちばん情報量がある=得をする」ってことなのです。

やや話がずれますが、こういって気づかないでしょうか。
英語+日本語が両方読めさえすれば最強ってことなのです。
日本人は世界レベルで「ネット情報強者」に最も近いって事なのです。
日本語はクリアしているという大きなアドバンテージがあります。
中学+高校+大学で既にそこそこ英語は分かっているはずです。
あとは量をこなせばいいのです。
ネットにある英語をどんどん読んで、理解出来るようになっていけばいいのです。
逆に既に英語は読めている外国人が日本語を読めるようになるハードルがどれだけ高いか想像してみてください(当然、漢字が読めないとダメなのですよ)
日本人が英語を読めるようになるハードルの方がはるかに低いと思いませんか。

勘違いして「いや英語で書いていることわかんないし」とか思わないことです。
単語が全部分からないですか?そんなことはないでしょう。
例えば日本語でも政治経済の新聞記事なんか分からない単語があるでしょう。
ましてや英語では100%なんてあり得ません。

これがこの本でも言及している英語教育の「100%主義」の弊害かもしれません。
学校では予習して100%英単語を調べておかないと教師から否定されます。
このトラウマが多くの人に残ってしまっているのでしょう。
現実世界で普通に英文を読めばわからない単語のひとつやふたつは当り前です。
100%単語を知っている文章なんか、読んでも多分、目新しい事が書いてない=読むだけムダな文章なのです。

意味を取る観点でも、日本語だって本当に100%理解しているか疑わしいのです。
もちろん9割程度は理解しているかもしれませんが、所詮は程度の差でしか無いのです。
最初は理解度が仮に数%でもその程度を上げていけば良いだけなのです。

この本でも言及していますが、日本の英語教育は、スポーツに例えると「ずっと部屋にこもって座学だけ延々とやらされてていた」状態といえます。
「ルールブックを隅から隅まで読んで暗記して重箱の隅をつつくような解釈を延々と聞いていた」良くても「ビデオを見ていた」だけなのです。
いざ試合をしようとしても“からだが動かない”のは当然です。
とりあえず理論は必要以上にあるのですから、あとは実践あるのみです。

そもそも学校教育においても座学を何年も続けるのでは無く「実際にボールに触って練習をしましょう」「練習試合もしましょう」とやっと変わろうとしているだけといえるのでしょう。
しかし、実際には球技で言えばボールもろくに触ったことも無い人も教師になっている、というのが現実ということのようです。
だから“現場が混乱し”たり“現場の負担増”という話になっているようです。
これは大学での教職免許取得過程の問題もあるでしょうし、学校の採用基準側の問題なのかも知れません。
既にそういう人達が教職にあると言う事実をどうするのかという点もあるのでしょう。

話を突き詰めると「英語を普通に喋れないくせに英語教師でいられるほうがおかしんじゃね?」ってことなのでしょう。
それを社会として許容するのか、ここで否定するのか、ということでしょう。
教師の“首切り”になりますからなかなか難しい問題です。
…という論点になりかねませんが、そもそも違うような気もします。

単に教師側としても授業の中で少しずつ英語を使っていけば良いだけの話だと思います。
そもそも学生だっていきなりすべて英語でやられてもついていけないでしょう。
自分の正確さが不安なら、校内の英語教師同士でチェックすれば良いだけと思います。
自分達の英語技能に不安があるのなら英語を教える資格は無いですよね(笑)

ここで、そもそも完璧である必要があるのでしょうか、という観点になります。
いきなり完璧を求めることこそが“悪い癖”では無いのでしょうか。

だいたい、完璧な英語を使っている人なんて殆どいません。
まあ、政治家、国連の人とか交渉・法律・契約関係とかなら必要かもしれません。
そんな人達がこの本であげる論文で言うところの「国体レベル」の人達なんでしょう。

そういう特殊な人達は除いて、一般ビジネス程度ですら結構無茶苦茶と思います。
海外の人とメールのやり取りはしますが、ドイツ人なんかドイツ語が混じってくるし、中国人やマレーシア人あたりなんか、かなりいい加減です。
別に言いたいことは分かるので、こちらも普通に文法的には怪しいかもしれない英語で返しています。
コミュニケーションが取れれば良いのですからそれでいいのです。
なんかうまくいかなかったらまたやり取りをすれば良いのです。
普通に日本語だって「意図が伝わっていないようなので再確認します」なんてよくあるんですから、英語でそれがない方がおかしいのです。
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