しゃべれないあなたは悪くない!英語力が伸びるホントの方法

それでも学校英語に期待しますか?と同じ著者が書かれた本。
この本の内容は比較的軽い。
要するに英語を出来るようになるには勉強はそこそこに「どんどん使えば良いんだよ」っていう事です。
「しゃべれない」と題目にありますが、読み書き聞き話すのすべてに通じます。

理論ももちろん重要ですが、それより何事も経験や慣れや日頃の訓練の積み重ねが重要なわけで、それは英語力においても同じというだけの話です。
細かいテクニックやら手法やらハウツーやら、そういうのもいいですが、ある程度理論がわかったら「習うより慣れろ」が上達の早道なのは英語力でも同じってことです。

ここでも「完璧主義は捨てろ」って話が出てきます。
例えば日本語のニュースでも聞いていて100%理解しているかといえば違うでしょう?ってことです。
例えば国会関係で話題になった「委員会採決」って理解していますか?理解していなければなぜそれをすっ飛ばしたことの問題の真意が分かるわけがありません。でもなんとなく流していますよね。
ましてや英語のニュースを聞いて100%理解出来るわけがありません。その国の異文化に根ざした習慣や常識、言い回しに根ざしたことを理解するのは日本語でも困難です。

だから「だいたいわかればいいんです」
ここでも日本の英語教育の欠陥が影響していて『「やさしい英語を100%理解する」ことに慣れているから「英語は100%理解出来ないとダメなんだ」と勘違いしてしまっている』という主旨の指摘をしています。
私も全く同意します。
完璧主義者的な悪い癖がついてしまっているということです。

なんとなく友人と会話していてもその内容を100%理解しているわけがありません。むしろそんな友人がいたら重くて仕方ないでは無いですか(笑)。

日常会話でたわいのない会話をしているのに「それはどういう主旨なの?」「どういう意味なの?」と何度も突っ込まれたら困ってしまいますよね。
ある程度は、なんとなく聞き流したり適当に相づちをうって流したりするじゃないですか。

著者の宮西さんも私と年代はさほど変わらないようで、数十年前と今の“英語環境”が大きく変わっていることを指摘しており、これも同感することが多々ありました。

学生の頃は英語の本を入手するのも大変でした。
レート通りなら五百円程度の本が二千円近くしたり、英語新聞や雑誌を手に入れるのも大変。
テレビの二カ国語放送も稀。
“生の英語”を手に入れる“コスト”が半端なかったのです。

今は言うまでも無くちょっとネット検索したらいくらでもあふれ出てきます。動画・音声もいくらでも手に入ります。
むしろ情報は英語しかないということも珍しくありません。

テレビ放送でも、CS放送で英語チャンネルはいくつもあるし、地デジになって「二カ国語だとモノラル」という制約がなくなったので英語含めた二カ国語の番組は確実に増えています。

私個人の子供の頃の印象で言えば円高が進行して輸入品が激下がりした時代がありました。
その時に米国から“舶来ゲーム”が流れ込んできた印象があります。
今はごく普通になった、いわゆる“PCAT互換機”の時代到来です。
国産規格機のPC用に舶来ゲームが移植されてその凄さに感心していたところ、そのゲームそのものが輸入されだしたのです。
しかし国産規格機では遊べません。
そのうちAT互換機の“部品”が輸入され安価に(ほぼ為替レート通りに)手に入るようになりました。
それがいわゆる国産機の同スペックより高く値段が安いのです。

障害は“英語であること”だけなのです。
そうなると英語という障害は些細なモノと考えるようになります。

ゲーム自体は今のように日本語字幕やら吹き替えもありません。
当然、説明書も英語です。英語がわからなければ操作すらできないのです。
ゲーム機のゲームと違ってキーボードを駆使して複雑な操作をする、いわゆる「フライトシュミレータ」系やらに取り憑かれたのですから仕方ありません。

更に言えば“正規輸入品”で日本語マニュアルがついていてもゲーム自体は英語のままです。
英語を理解しなければ十分に楽しめません。

ゲームですから英語がわからずとも十分に面白いのですが、わかればもっと面白く遊べるに決まっている、と考えます。

もはや理屈ではありません。
「より面白くゲームを遊ぶために英語を学習し理解しよう」と自然と考え始めたのです。
これが私にとって「英語自体が目的では無くなった」きっかけでした。

そのうち日本語マニュアルがついているだけで数千円高かったり、発売時期が遅れたりするのに我慢出来なくなり、英語圏で売られているそのままの、いわゆる直輸入品を求めるようになります。
ゲーマーにとって「可能なら発売日に買っていち早く遊ぶ」というのは重要なこだわりですから避けて通れないのです。

分厚い英語マニュアル(解説書)がついていても「なんとかなるだろう」と意に介さなくなります。
全部きちんと理解しなくても、理解しただけゲームが面白く上手くできるようになるだけですから、そこそこでいいんだと気がつきます。

米国ゲームはリアリティを大事にしますから、軍事モノのゲームだと作戦室での「ブリーフィング」から始まるのが定石です。
英語でいきなり「今回のミッションは・・・」と説明が始まります。キャプションがないゲームもありますから、聞き取れないと何をしたら良いのかすら分からず文字通りの戦場に放り込まれます。
最初はパニックに陥りますが、これも完璧に聞き取れる必要は無くそのうちキーワードを把握すれば良いのだと気がつきます。
クリア要件だけでも把握出来ればスコアが悪くなるだけでゲーム自体は楽しめますから、これもそこそこでいいんだと実感できます。
ところどころ聞き取れなくてもなんとなく流れでこうするよなで理解したりうまくいったりもします。

ゲームの世界に没頭しますから、没頭するために集中すると同時に英語が頭にすっと入ってくる感覚があります。
ゲーム脳という言葉もありますが、英語脳に切り替わる感覚を覚えたのはこの頃でもあります。

理解に日本語を介入させるなんて悠長なことをしていれば「敵にやられる」だけですから英語のまま受け入れるしか無いのです。
ゲームの操作でいちいち考えているうちは全くダメなのは言うまでもありません。
敵や状況に応じて反射的に感覚で反応しなければダメです。
「考えるな、感じろ」って奴です。
英語だってその要素の一つでしか無いのです。
例えば「Watch out!!」と通信が入ったら反射的にレーダーに視線を移したり、周囲を見渡して敵(ミサイルかも知れません)を探すということです。
一瞬遅れたら文字通り致命的なのですから。

最近はマルチ言語のゲームも増えていますから、英語でも遊んでみるというのも面白いでしょう。
今年(2017年)に出た「ゼルダの伝説」はわざわざマルチ言語対応であることを告知しています。(ゲーム機としては珍しいのではと思います。)
これは日本に外国人が増えていることの対応なのかも知れません。

生の英語に触れられる、いや英語界にいられる機会はいくらでもあります。
典型的なのは残念ながらWiiUだけで終わったMiiverseというSNS的システムがあるのですが、これは国別ではない場(ゲーム別)もたくさんありました。
日本語はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語はよく見かけました。
私は英語の“スレッド”もよく読んでいましたし、たまにやり取りをしたりもしていました。

ゲーム機という特性もあってか、明らかに子供だったり、拙い英語、幼い語彙を使ったもの、文法面ではめちゃくちゃな文章がいくらでもあることを実感出来ます。
私はネットで英語を見ることがあっても、普通の子供が書いた英文を見るのはこれが初めてだったと思います。

中にはネイティブ言語がサポートされていないだろう国の人も参加しており、それ故に英語で話しているんだろうなという人もいくらでもいます。

当り前ですがそれも「英語」です。
そもそもイギリスや米国の英語が“絶対”ではないのです。
だから日本人が拙い英語であっても全く問題が無いのです。
言葉面ではそうは思っていましたが、Miiverseではこのことを改めて実感したのです。

以前は「そこそこ凄い人(英語もきっちりできる)が英語を使って文章を書いている」のを見るのが普通だったので「英語はきっちりできないと書いたりしちゃいけない」という雰囲気があったのかも知れません。
しかしここ数年で「一般人が発信する」ことが非常に増えています。
「一般人の発信」は「SNSのマイナス面」といわれ、非常識な投稿などの社会問題を招いている面もあるのですが、「普通の人の英語」を目にする機会が増えるという事でもあります。
その時に冷静に読んでみると日本教育の観点からは「とんでもない英語」が溢れており、むしろそれが「普通」レベルなのです。

著者の宮西さんは「普通の日本人の英語力はそういう人から頼られるくらい十分レベルが高い」と評しています。
「三単現sすら知らない(間違っている)」のもいくらでもあります。

最近は会社でも東南アジアの人との英語でのやり取りが増えているのですが、英語は結構拙いです。(中国人は比較的しっかりしている気がします)
いや、東南アジアとは限らず欧州でも大差ないのかもしれません。
ドイツ現地人とのメールのやり取りをしたこともありますが、英語は結構酷いです。
ドイツ語の単語が混じってきたり「ドイツ語風の英単語」が混じってきたりと時折ツボに入ります(笑)。

「完璧な英語ができるまで英語は使わない」というのは「グローバルスタンダード的に大間違い」なのです。

要するに「そろそろ座学はいいからさっさと実戦にいけばいいのに」ということです。
出来ないという日本人は座学偏重過ぎで実戦が足らないというだけのことなのです。
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